「どこまでも」 青の中心にモアナが来るとき【動画つき】

 
「モアナと伝説の海 MovieNEX」 ♪“どこまでも ~How Far I’ll Go~”

 「どこまでも」の場面の序盤、モアナを真上からとらえた映像があります。その画面は陸と海で斜めに分割されています。これはなにを表現する映像でしょうか。

 モアナはモトゥヌイ島に暮らしています。やがて父から村長の座をつぐ人物です。

 相いれないふたつの思い。モアナはそのあいだで引き裂かれています。島で民を導いてほしいという父の思いと、海に出て冒険したいという彼女自身の思いです。

 ここまで述べれば明らかなように、陸と海で斜めに分割された画面は、モアナの分裂した気持ちをストレートに反映したものです。

打ち寄せる波を
ずっとひとり見つめていた
なにも知らずに

そうよ 期待にこたえたい
でも気づけばいつも
海に来てるの

後半部分は英語ではこうなっています。

I wish I could be the perfect daughter
But I come back to the water
No matter how hard I try

daughterとwaterで韻を踏んでいます。村に残り父の望むような娘でいるべきか、それとも裏切りと危険を覚悟で海に出るべきか。これがモアナのTo be, or not to beです。

 このあとモアナは後ろを振りむき、海岸から立ち去ります。ここでモアナは右にむけて歩きます。これはちょっと奇妙ではないでしょうか。さきほどの映像では画面の左に陸が、右に海があったからです。陸にもどるのであれば、モアナは左にむけて歩くべきです。すくなくともそのほうが自然です。

 しかしここではそれでいいのです。実際、モアナはこのまま右に歩きつづけて、ふたたび海岸にもどってきます。

どの道を進んでも
たどり着くとこは同じ

村にとどまること。それが自分にとっても民にとっても幸せなこと。そのようにくりかえし自分に言い聞かせても「たどり着くとこは同じ」。海。

 モアナは心の奥底では海にむかって進んでいるのです。その思いを的確に表現しているのが、モアナが右にむけて歩きつづける映像だと言えます。


 モアナは砂浜のボートに飛び乗ります。おもしろいのはここです。モアナはまだ砂浜にいますが、心のなかではすでに海にいます。その思いそのままに、画面から陸地が消えます。つまり、陸地を画面の外におくフレーミングによって、一瞬、モアナが海の上にいるように見えるのです。

 スクリーンを覆いつくす空と海の青が目にしみます。

空と海が出会うところは
どれほど遠いの
追い風受け 漕ぎ出せばきっと
わかるの
どこまで遠くまで行けるのかな

マストを片手でつかんで体を傾けるモアナ。その髪が風になびきます。風も彼女が海に出ることを望んでいるのでしょうか。豚のプアもモアナのためにオールを運んできます。

 ところが、です。モアナはオールを砂浜に突き刺し、浜辺を離れます。村長の娘として自分は村にとどまるべきだ。モアナの気持ちはそちらにかたむきます(だからこそ、さきほどとは違って、彼女は左にむけて歩きます)。

 オールを砂浜に突き刺す動作は、以前の場面でモアナの父が見せた動作の反復です。ここでモアナは父になっているのです。

 これは『アナと雪の女王』の「レット・イット・ゴー」の場面を思い出させます。歌の序盤、エルサは両親になりきって自分に言い聞かせます。

秘密を悟られないで
いつも素直な娘で
感情を抑えて
隠さなければ *日本語字幕版

モアナは天真爛漫さにおいてはアナに似ていますが、親の規範を内在化している点ではエルサに似ています。もちろん、その規範からの脱却を試みるところも、エルサに似ています。

 オールに関してもうひとつ、とても重要なことがあります。プアはオールを口にくわえて、つまりは横にした状態で運んできました。そのオールをモアナは縦にして砂浜に突き刺します。島に帰属すること、自分の根を下ろすこと、それが垂直のイメージで表現されています。

 でも海に漕ぎ出したい。それが偽らざる本心です。これから見るように、その思いは水平のイメージで表現されています。

 つまりこういうことです。「どこまでも」の場面は内容面では陸での定住と海への冒険の対立、父の願いと自分の夢の対立を描いています。それが画面上では垂直と水平のイメージの対立に置き換えられています。

 垂直と水平のイメージの対立のゆくえを追ってみましょう。

 島に残ったほうが幸せだ。モアナがそう自分に言い聞かせるとき、優勢をしめるのは垂直のイメージです。木をのぼる。ココナッツの実を落とす。絨毯を広げてまっすぐ下ろす。凧をあげる。村民たちが見せるのは、すべて垂直のイメージです。プアが偶然にも絨毯の下敷きになるのは、モアナの村への幽閉を象徴しているのかもしれません。

 モアナ自身も山をのぼります。その山の頂には石がいくつもつまれています。この村では村長になる者がひとつずつ石を重ねるのがならわしです。モアナはそのいちばん上に新しい石をおこうとします。小さくも決定的な垂直の運動の予感。モアナの父はかつてこう言っていました。

お前がこの上に石をおいたとき、島はいまよりも一段高くなる。お前は村の未来だ、モアナ。それは遠い海ではなく、ここにある。みんなの期待にこたえるときが来たんだよ。

 皮肉なのは、そして胸を打つのは、山にのぼったことによって、海がよく見えるということです。モアナの背後に広がる青い空と海。彼女は石をつむことをやめ、空と海のほうを振りむきます。

 つぎに来るのは、モアナの視点から描かれた映像。空と海が画面いっぱいに広がっています。正確に言えば、最初は木が映り込んでいますが、モアナが視線をさらに遠くにむけると、それは消えて画面は海と空だけで満たされます(ちなみに、父とこの山頂をおとずれた場面でのカメラワークはこれとは逆でした)。またしても青が目にしみます。

 モアナは走り出します。迷うことなく、海へと。ここで垂直と水平のイメージの優劣が逆転します。目の前には崖。するとモアナは、驚くべきことに、木と木の葉を使ってターザンロープの要領で崖を越えます。空中を水平に滑るのです。さらに驚くべきことが起きます。地面から水が激しく噴き上げるなかを、モアナが悠然と走り抜けていくのです。なんど水が垂直に噴出しようと、海へとむかうモアナの水平の滑走は止められません。

 砂浜では豚のプアが待っています。もちろんオールを口にくわえて。モアナはオールを受け取ると、ボートを水平に滑らせて海に出します。しばらくして、カメラが首を横にふると、みたび青が目にしみる映像が来ます。画面いっぱいに広がった空と海。そしてその中心にはいまモアナがいます。海に恋焦がれた彼女が。

 これはディズニー屈指の名場面です。