「レット・イット・ゴー」 氷の階段の上がり方(『アナと雪の女王2』公開記念)【動画つき】

 『アナと雪の女王2』の公開にあわせて、前作の名場面を振り返っています。今回はいよいよ「レット・イット・ゴー」の場面です。


松たか子ver(日本語吹替版)「Let It Go」

 


FROZEN | Let It Go Sing-along | Official Disney UK

 「レット・イット・ゴー」の場面は、映画史上、もっともよく見られている場面のひとつでしょう。

 2番目の動画はディズニーUKがアップしたものですが、再生回数は2019年11月時点でじつに18億回です。2018年7月に確認したときは15億回だったので、それから約1年でさらに3億回視聴された計算になります。YouTubeにはほかのヴァージョンもアップされています。当然、ネット配信やブルーレイ・DVDで鑑賞するひともいます。いまこの瞬間も世界中で多くのひとが「レット・イッゴ・ゴー」の場面を見ているのです。

 この名場面について、ふだんあまり語られることのない観点から論じてみます。

 エルサは「レット・イット・ゴー」を歌いながら、それまでに自分に禁じていた魔法の力を解き放ちます。途中、ぐっとくる瞬間がいくつもあります(たとえばエルサがティアラを投げ捨て、長い髪をほどくところ)。なかでもいちばん心を打つのは、やはりエルサが氷の階段を上がる瞬間ではないでしょうか。 

 なぜこの瞬間はひとの心を強く打つのでしょうか。ここではとことん映像にこだわって、その理由を考えてみることにしましょう。

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 雪山を歩くエルサの目のまえに、深い谷があります。その谷をエルサは魔法で氷の階段を作って、越えていきます。

 エルサが階段を上がっている、上にむかって動いている、それだけでも驚くべきことです。前回の記事で触れたように、それまで上下の動きはアナの専売特許でした。エルサはほとんど動かず、動くにしても前に少し進むだけでした。そのエルサがここでは上にむかって動きます。しかも、アナにはできないやり方で上昇してみせます。まずはこの劇的な変化に驚かされます。

 また、あるとき学生に言われてはっとしたことがあります。階段を上がるときのエルサの顔はアナの顔に似ているということです。たしかにそうです。それまでエルサは大人びた表情を見せていましたが、ここではアナのように明るく、そして無邪気な表情を見せます。エルサのなかに眠っていた(あるいは彼女が意図的に押し殺していた)無邪気さ、子どもらしさが目をさまします。

 子どもらしさということで言えば、階段を上がるときのエルサのポーズも興味深いものです。魔法を使いながら階段を上がるので、エルサは手をまっすぐ前に伸ばしたまま、進んでいきます。それまで自分に手の動きを禁じていたエルサが、その手を前に目一杯突き出して走ります。

 そのポーズは、歩きはじめたばかりの子どもを思わせるものです。ふりかえるなら、「生まれてはじめて」の場面には、アナが螺旋階段の手すりを滑り降りる箇所がありました。思わず、小学生の男子か!、とつっこみたくなりますが、氷の階段を上がるエルサは、それよりもさらに幼い子どものように見えます。まるでいちど生まれ変わったかのように、エルサは幼子にかえり無邪気さを爆発させます。オラフの走り方に似ているのも面白いですね。

 補足すると、子どもらしさを取り戻すというのは、ディズニーにとって大切なテーマです。よく言われることですが、ディズニーランドは子どものための場所ではありません。そこを訪れるすべてのひとが、自分のなかに眠る子どもらしさを呼び覚ます場所、それがディズニーランドです。それがディズニーの根本的な思想です。そう考えると、エルサが階段を上がる瞬間、子どもらしさを取り戻す瞬間は、ディズニーの思想を凝縮したものととらえることもできます。

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 もう少し別の観点から、エルサが階段を上がる瞬間について考えてみましょう。

 ここでひとつ質問です。エルサが階段を上がりはじめてから、上がり終えるまでに、何秒かかるでしょうか。

 答えは8秒です。

 ではその間にいくつの映像が使われているでしょうか。

 そう聞かれてもわかりにくいかもしれませんので、少し補足しましょう。ここではまずエルサを正面からとらえた映像があります。次にエルサを横からとらえた映像があります。これでふたつです。このように複数の映像が使われているのですが、合計でいくつでしょうか。

 答えは6つです(正面からの映像、横からの映像、後ろからの映像、真上からの映像、斜めからの映像、ふたたび正面からの映像)。

 8秒間に6つの映像があるわけですから、ひとつひとつの映像はとても短いです。1秒くらいでどんどん映像が切り替わります。

 このようにエルサが階段をあがる瞬間は、短い映像で作られています。面白いのは、「レット・イット・ゴー」の場面は、最初のうちは長い映像が使われているということです。ところが、エルサが階段を上がる瞬間にむけて、映像はどんどん短くなっていきます。映像が切り替わるペースが上がっていきます。

 なぜでしょうか。いろんな考え方があるでしょうが、私はこんなふうに考えています。この映像の切り替わるペースは、エルサの胸の鼓動に対応していると。

 この場面でエルサは、それまで自分に禁じていた魔法を使いはじめます。その魔法を使いながら、エルサはドキドキしているにちがいありません。そのエルサの胸の鼓動が、映像の切り替わるペースに反映されているということです。映像の切り替わりがどんどん細かくなり、まるで映画そのものがドキドキしているように感じられます。

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 さて、階段を上がったあと、エルサはさらに別のものを作ります。何を作るでしょうか。氷の城です。東京ディズニーランドにシンデレラ城がありますが、あれくらいの大きさの城を1人で作ってしまうのです。

 さて、また質問です。

 エルサが城を作りはじめてから作り終えるまでに、何秒かかるでしょうか。

 答えは28秒です。

 そのあいだにいくつの映像が使われているでしょうか。

 ぜひ実際に映像を確認していただきたいのですが、答えはひとつです。

 つまり、かなり長い映像が使われています。そのまえにエルサが魔法を使いはじめる映像がありますが、城ができる様子そのものはひとつの映像で描かれます。階段を上がる箇所とは対照的です。

 この時点でエルサはすでに自信に満ちあふれていて、ほんとうに一息で、のびのびと氷の城を作ります。その映像も一息になっています。つまり切れ目がないのです。

 このようにエルサの胸の鼓動や息遣いと映像を切り替えるタイミングがとてもうまく対応している。それもこの場面の魅力のひとつだと思います。

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 さきに見たように、エルサが階段を上がる瞬間は6つの映像で作られています。そして映像ごとに、エルサをとらえるアングルが変わります。

 考えてみれば、これはすごいことです。たとえば、いま私たちの目のまえにエルサがいるとします。そして、氷の階段を作りながら上がってみて、とエルサにお願いするとします。エルサはいいひとなので、おそらくOKしてくれるでしょう。ついでなので、「レット・イット・ゴー」も歌ってもらいましょう。

 しかしこのとき、私たちはエルサが階段を上がる瞬間を、ひとつのアングルからしか見ることができません。一方、映画では編集の力によって、いくつものアングルから見ることができます。

 このひとつひとつのアングルに意味があります。

 正面からの映像では、エルサの明るい表情を見ることができます。横からの映像では、階段が延びていくのを確認できます。後ろからの映像では、私たちはエルサとともに階段を上がっている気分を味わえます。

 真上からの映像では、エルサがどんなに深い谷(もちろんこれは古い自分と新しい自分の断絶を象徴するものです)を越えようとしているかがわかります。

 斜めからの映像では、エルサが宙に浮いているように見えることで、彼女が("I’m one with the wind and sky"という歌詞のとおり)風と空と一体になっていることがわかります。そしてふたたび正面からの映像で、私たちはエルサよりも一足先に大地に立ち、このヒロインを迎え入れます。

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 ところで、このようにさまざまなアングルがあるのですが、カメラが階段の右側(エルサの右手の側)に出ることはありません(階段の真上に行くことはあっても)。

 つまり、エルサを正面や左側からとらえた映像はあっても、右側からとらえた映像はありません。結果として、エルサが右から左に動く映像はあっても、逆に動く映像はありません。

 これは180度ルールと呼ばれる撮影のルールが守られているということです。

 サッカーの試合中継を思い浮かべてもらいたいのですが、試合はゴールとゴールを結ぶ一本の線のどちらか一方の側から撮影されます。この線をまたいで撮影されることは基本ありません。もしまたぐと、2チームの攻撃の向きが左右入れ替わるので、視聴者が混乱してしまいます。これが180度ルールです。(映画では180度ルールが意図的に破られることもあります。とくに混乱した場面ではそのほうが効果的です。)

 エルサが階段を上がる瞬間は、180度ルールが守られ、エルサの移動の向きが変わることはありません。

 この瞬間に関しては、変わってはならないのです。自分の意志で一直線に進んでいくエルサ。そのエルサの気持ちを観客に伝えるには、移動の向きを一貫させるのが正解なのです。

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 まだいくらでも分析をつづけられますが、このあたりで終わりにしましょう。続編『アナと雪の女王2』でエルサがどのように動くのか、そしてそれがどのような手法で描かれるのか、楽しみです。

 


「アナと雪の女王2」吹替版 予告

 以上の記事は夢ナビライブ2018での高校生向けの講義「映画を見る目を変える 画面分析のレッスン(『アナと雪の女王』論)」の原稿にもとづくものです。

「生まれてはじめて」 アナとブランコとお日さま(『アナと雪の女王2』公開記念)

 『アナと雪の女王2』がもうすぐ公開されます。この機会に前作『アナと雪の女王』の名場面を振り返ってみましょう。今回は「生まれてはじめて」の場面です。

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 「生まれてはじめて」はエルサの戴冠式の日に妹のアナが歌う曲です。現題は"For the First Time in Forever"。英語で"for the first time in three years"と言えば、「3年間ではじめて」、つまり「3年ぶりに」という意味。ここは"in forever"ですから、直訳すると「永遠ではじめて」となります。前回から永遠と感じられるくらい長い時間が経ったということです。

 日本語だと「本当に久しぶりに」と言うところですが、英語ではこうした大げさな表現が好まれます。"forever"を使った表現としては、たとえばこんなものもあります。「彼のことはずっと前から知ってるよ」は"I've known him since forever." 「返信が遅くなってごめん」は"Sorry for taking forever to reply."

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 さて、この場面では「本当に久しぶりに」、アナにとって嬉しいことが起きます。ずっと閉ざされていた城の門が開かれ、外の世界のひとたちがやってきます。そのなかにはアナの運命の相手("the one")がいるかもしれません。

 曲の途中、アナは嬉しさのあまり、窓の外に飛び出し、あるものに乗ります。覚えていますでしょうか。窓拭き用のブランコです。高い建物の窓を拭くときに、足場として使うものです。

 このブランコには、長さを調整するロープがついています。ブランコに飛び乗ったアナがそのロープを引くと、ブランコが――そしてブランコに乗ったアナが――どんどん上がっていきます。これはまさにアナの気持ちが上がっている場面ですが、その場面でアナ本人が上がっていくという演出です。まさに彼女は有頂天です。

 ただ、映画館で見たときに気になったのは、アナがブランコに飛び乗る瞬間、陰に入ってしまうということです。ちょっと考えてみてほしいのですが、自分が映画監督になったとして、魅力的なヒロインを撮るとき、彼女を陰に入れるでしょうか。ふつう入れないですよね。

 ではなぜここで陰に入れるのでしょうか。すぐに答えが明らかになります。このあとアナはどんどん上昇していくのですが、そうするとアナは陰から光に出ます。つまり、これはアナを陰に入れるというよりは、彼女を陰から光に出す演出なのです。

 これはなんのための演出でしょうか。確実に言えるのは、陰から光への移行が、アナの境遇の移行を象徴しているということです。つまり城のなかで過ごす暗い生活から、外の世界のひとと出会う明るい生活への移行です。

 さらに重要なことがあります。アナが光に出た瞬間、もともと陰にいたからこそ、顔がとても明るく輝いて見えるということです。この顔の輝きを見逃さないようにしましょう。

 この場面でアナはとても喜んでいます。心のなかが輝いています。しかしその心のなかの輝きは目には見えません。その目には見えない心の輝きを、ここでは目に見える顔の輝きによって表現しています。目には見えない心のなかを、日光を利用して、目に見える映像として描いているのです。このようにキャラクターに光を当てることによって、その人物の心の輝きを表現するというのは、よくある技法です。

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 このあと、城のなかに戻ったアナは、イケメンの銅像を運命の男性に見立てて歌います。銅像に隠れてこっそりチョコを食べるところがアナらしくていいですね(このチョコは『シュガーラッシュ』に登場するチョコの山を意識したものだそうです)。

 チョコを食べ終えたアナは銅像と一緒にダンスしますが、くるっと回転した勢いで銅像を放り投げてしまいます。銅像は五段重ねのパープルのケーキの上に落下します。彫刻の頭がケーキと一体化します。

 これが面白いのは、マッチョな男がかわいい服を着ているように見えるからです。『アナと雪の女王』はセクシュアリティがテーマの映画でもありますが、これはそテーマにつながるイメージと解釈することもできるでしょう。そう言えば、映画のエンドクレジットのあとに登場するのもティアラをかぶる男のイメージですよね。

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 「生まれてはじめて」はアナが歌う曲ですが、後半にはエルサのパートもあります。姉妹がヴィジュアル面で対照的に描かれているのも大きなポイントです。その点を見ていきましょう。

 服の色もそうですが、より重要なのは動き方です。アナはとてもよく動きます。しかも上下に動きます。一方、エルサはほとんど動きません。動くとしても前に少し動くだけです。この点を押さえておくと、「レット・イット・ゴー」の場面をより深く味わえます。

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 エルサとアナの対比に関しては、ふたりの背後に映った絵画も重要です。多数の絵画が飾られた城の一室で、アナは曲の二番目のコーラスを歌いながら、絵画のなかの女性と同じポーズを取ってみせます。どの絵画の女性も周りにちやほやされています。アナもそうなりたいのです。(その内の一枚はフラゴナールの「ぶらんこ」を模したものであり、すでに多様な分析がなされていますが、ここでは省略します。)

 面白いのは最後の絵画です。これ以前の絵画では中心に女性がにいて、アナはその女性のまねをしていました。最後の絵画では中心に女性がいません。アナはその絵画の中央に立ち、自分がその中心になってみせます。これまでは憧れていただけ。でも今日こそは自分が主役。そんなアナの思いがよく伝わってくる演出です。

 この直後、別室にいるエルサも絵画を背景にポーズをとります。中心に描かれた人物と同じポーズです。しかし、それは女性ではありません。男性です(アナと違って男性に同一化するのも、セクシュアリティのテーマ的に興味深いです)。具体的に言うと、父親、つまり前の王です。

 戴冠式を描いたその絵画では、参列者が王を敬いつつも畏れている様子です。さきほど言及した絵画、アナが「主役」を演じたあの絵画で、同席者が彼女をちやほやしているように見えるのとは大きく違います。エルサとアナの対比はこんなところにもあらわれています。

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 「生まれてはじめて」の場面で、躍動感あふれるアナとは対照的に、氷のように硬くこわばったエルサ。しかし、エルサがまさに氷に関わる力を使って、アナを凌ぐ躍動感を見せる場面がやがてやって来ます。その場面については、次回の記事で書くことにします。

 以上の記事は夢ナビライブ2018での高校生向けの講義「映画を見る目を変える 画面分析のレッスン(『アナと雪の女王』論)」の原稿にもとづくものです。

『トイ・ストーリー』の英語

 『トイ・ストーリー』のセリフ(英語)は面白い。あらためて見るといろんな発見があります。

 今回はシリーズ第1作から3つだけ例をあげます。

 

①「おい、スケッチ。勝負だ!」

ウッディ:おい、スケッチ。勝負だ! ...またやられた! スケッチ、お前、大したもんだな。西部一の早撃ちだ。

 ウッディがスケッチ(絵を描くおもちゃ)と早撃ち競争をする箇所。ウッディは銃を素早く抜く仕草をします(二丁拳銃!)。一方、スケッチは銃の絵を瞬く間に描いてみせます。

 さて、このセリフ中の「勝負だ!」ですが、原文では"Draw!"です。これは掛詞になっています。

 英語の"draw"には「銃を抜く」と「描く」という両方の意味があるのです。

 「西部一の早撃ちだ」は原文では"Fastest knobs in the West." 本来なら"Fastest hands"と言うべきところですが、"hands"の代わりに"knobs"と言っているのが面白いですね。"knob"はダイヤルのこと。スケッチには2つダイヤルがついていて、これを回すと絵が描けます。

 「西部一の早撃ちだ」と言いたいときは、"Fastest gun in the West."または"Fastest gunslinger in the West."も使えます。実際に使うことはなさそうですが、笑。

 スケッチの英語の正式名称はEtch A Sketch。略してEtchと呼ばれます。国立アメリカ歴史博物館のお土産コーナーに売っていたので、姪っ子に買って帰ったことがあります。

 

②「仕事はきちんとやってくれるさ」

ウッディ:おい、あいつらはプロなんだぜ。信じろよ。仕事はきちんとやってくれるさ。

 アンディの誕生日プレゼントが何か探るために、ウッディはグリーンアーミーメンを偵察に送り出します。連絡が遅いと心配するレックスにウッディが言うのが上のセリフです。

 「仕事はきちんとやってくれるさ」は原文では"They're not lying down on the job." 英語の"lie down on the job"には「仕事をおろそかにする」という意味があります。字義どおりの意味は「仕事の上に寝そべる」。

 このセリフが面白いのは、グリーンアーミーメンが仕事中に床に寝そべっているからです! ただし、仕事をおそろかにしているのではありません。偵察中、アンディのママに足でどけられて転んでしまったのです。

 

③「ウッディが大丈夫って言やぁ、俺はそれで大丈夫なのさ」……というセリフの最中の仕草

スリンキー:おいおい、落ち着けポテトヘッド。ウッディが大丈夫って言やぁ、俺はそれで大丈夫なのさ。

 ②の少し前の場面。ウッディがアンディの誕生日パーティーは今日になったと告げると、おもちゃたちはパニックになります。「大丈夫」というウッディにポテトヘッドが抗議すると、スリンキーが上のセリフを述べます。

 このセリフに変わったところはありません。面白いのは、スリンキーがこのセリフを述べる最中にポテトヘッドが見せる仕草です。

 ポテトヘッドは自分の口を外し(彼の顔のパーツは取り外し可能です)、それで自分の尻を叩いてみせます。

 尻にキスしているのです。

 おわかりでしょうか。英語で"kiss someone's ass"と言えば、「ごまをする」「こびへつらう」の意味です。ポテトヘッドはスリンキーがウッディにごまをすっていると批判しているのです。

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 最後の③はTom KemperのToy Story論でも言及されています。『トイ・ストーリー』は英語圏ではかなり学術研究が進んでいますが、日本ではまだまだです。機会があれば海外の研究動向も紹介したいと思います。

Toy Story: A Critical Reading (BFI Film Classics) by Tom Kemper(2015-05-29)

Toy Story: A Critical Reading (BFI Film Classics) by Tom Kemper(2015-05-29)

 

『イエスタデイ』トリビア集(ネタバレなし)

IMDb Triviaからいくつか選んで訳しました。

  • 初期の段階のアイディアとして、紫色(パープル)が存在しないというのもあった。バンドのディープ・パープルがディープ・オレンジと呼ばれるという小ネタもあった。だが、このアイディアはボツになった。エキストラの全員に紫色の服を着させないようにするのは、あまりに大変だったからだ。
  • ジャック役のヒメーシュ・パテルの歌と演奏はすべて本人によるものである。
  • ジャックが初めて「イエスタデイ」を演奏する場面で、ジャックの友人はコールドプレイの曲ほどは良くないねとコメントする。エド・シーランの役は当初、クリス・マーティンが演じる予定だった。コールドプレイのリードシンガーである。スケジュールの都合で出演できなくなったため、エド・シーランに役が回ってきたのだが、このコールドプレイをめぐるジョークは脚本に残された。
  • 劇中でエド・シーランのプライヴェート・ジェットに乗っている客室乗務員は、実はエド・シーランの妻、チェリー・シーボーンである。


映画『イエスタデイ』予告

『イエスタデイ』トリビア集(ネタバレあり)

IMDb Triviaからいくつか選んで訳しました。

ネタバレありです。ご注意ください!! ネタバレなしのトリビアこちら

  • ジャックは夢のなかで、ジェイムズ・コーデンのトークショーに出演しているところを想像する。このときコーデンはビートルズの曲の真の作曲家を見つけたと言ってジャックを驚かせる。そして二人の男が入ってくる。その足だけが見えるのだが、一人は靴を履いていない。これはポール・マッカートニーである。ビートルズの『アビー・ロード』のジャケットでポールが靴を履いていないことは有名だ。
  • ジャックがジョン・レノンに会うとき、二人は逆さまになったボートに座って話す。あるショットで、その逆さまになったボートに「イマジン」〔ジョンの代表曲のタイトル〕という文字が書かれているのが見える。
  • ジャックがジョンと恋愛について話す場面で、ジョンは「偏見と高慢」という言い方をする。普通はジェイン・オースティンの著名な小説にちなんで「偏見と高慢」ではなく「高慢と偏見」という言い方になるはずである。このことが暗示しているのは、小説『高慢と偏見』が執筆されなかったか出版されなかった、もしくはオースティンがビートルズやコカコーラやタバコのように存在しなかったことかもしれない。
  • ジャックがパブでジョージ・ハリスンリンゴ・スターに会う場面もあるはずだったが、結局削られた。この場面があるとジョンの場面の衝撃が減ってしまうと脚本家たちが考えたからである。
  • ジャックはハリ・ポッターの存在も消えてしまったことを知る。ところで、ジャックとエリーがトンネルにいる場面はバーケンヘッド・トンネルで撮影された。ここは『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』のロケ地のひとつである。
  • エリーを演じたのはリリー・ジェイムズ。ハリーの両親の名前はリリーとジェイムズである。

「どこまでも」 青の中心にモアナが来るとき【動画つき】

 
「モアナと伝説の海 MovieNEX」 ♪“どこまでも ~How Far I’ll Go~”

 「どこまでも」の場面の序盤、モアナを真上からとらえた映像があります。その画面は陸と海で斜めに分割されています。これはなにを表現する映像でしょうか。

 モアナはモトゥヌイ島に暮らしています。やがて父から村長の座をつぐ人物です。

 相いれないふたつの思い。モアナはそのあいだで引き裂かれています。島で民を導いてほしいという父の思いと、海に出て冒険したいという彼女自身の思いです。

 ここまで述べれば明らかなように、陸と海で斜めに分割された画面は、モアナの分裂した気持ちをストレートに反映したものです。

打ち寄せる波を
ずっとひとり見つめていた
なにも知らずに

そうよ 期待にこたえたい
でも気づけばいつも
海に来てるの

後半部分は英語ではこうなっています。

I wish I could be the perfect daughter
But I come back to the water
No matter how hard I try

daughterとwaterで韻を踏んでいます。村に残り父の望むような娘でいるべきか、それとも裏切りと危険を覚悟で海に出るべきか。これがモアナのTo be, or not to beです。

 このあとモアナは後ろを振りむき、海岸から立ち去ります。ここでモアナは右にむけて歩きます。これはちょっと奇妙ではないでしょうか。さきほどの映像では画面の左に陸が、右に海があったからです。陸にもどるのであれば、モアナは左にむけて歩くべきです。すくなくともそのほうが自然です。

 しかしここではそれでいいのです。実際、モアナはこのまま右に歩きつづけて、ふたたび海岸にもどってきます。

どの道を進んでも
たどり着くとこは同じ

村にとどまること。それが自分にとっても民にとっても幸せなこと。そのようにくりかえし自分に言い聞かせても「たどり着くとこは同じ」。海。

 モアナは心の奥底では海にむかって進んでいるのです。その思いを的確に表現しているのが、モアナが右にむけて歩きつづける映像だと言えます。


 モアナは砂浜のボートに飛び乗ります。おもしろいのはここです。モアナはまだ砂浜にいますが、心のなかではすでに海にいます。その思いそのままに、画面から陸地が消えます。つまり、陸地を画面の外におくフレーミングによって、一瞬、モアナが海の上にいるように見えるのです。

 スクリーンを覆いつくす空と海の青が目にしみます。

空と海が出会うところは
どれほど遠いの
追い風受け 漕ぎ出せばきっと
わかるの
どこまで遠くまで行けるのかな

マストを片手でつかんで体を傾けるモアナ。その髪が風になびきます。風も彼女が海に出ることを望んでいるのでしょうか。豚のプアもモアナのためにオールを運んできます。

 ところが、です。モアナはオールを砂浜に突き刺し、浜辺を離れます。村長の娘として自分は村にとどまるべきだ。モアナの気持ちはそちらにかたむきます(だからこそ、さきほどとは違って、彼女は左にむけて歩きます)。

 オールを砂浜に突き刺す動作は、以前の場面でモアナの父が見せた動作の反復です。ここでモアナは父になっているのです。

 これは『アナと雪の女王』の「レット・イット・ゴー」の場面を思い出させます。歌の序盤、エルサは両親になりきって自分に言い聞かせます。

秘密を悟られないで
いつも素直な娘で
感情を抑えて
隠さなければ *日本語字幕版

モアナは天真爛漫さにおいてはアナに似ていますが、親の規範を内在化している点ではエルサに似ています。もちろん、その規範からの脱却を試みるところも、エルサに似ています。

 オールに関してもうひとつ、とても重要なことがあります。プアはオールを口にくわえて、つまりは横にした状態で運んできました。そのオールをモアナは縦にして砂浜に突き刺します。島に帰属すること、自分の根を下ろすこと、それが垂直のイメージで表現されています。

 でも海に漕ぎ出したい。それが偽らざる本心です。これから見るように、その思いは水平のイメージで表現されています。

 つまりこういうことです。「どこまでも」の場面は内容面では陸での定住と海への冒険の対立、父の願いと自分の夢の対立を描いています。それが画面上では垂直と水平のイメージの対立に置き換えられています。

 垂直と水平のイメージの対立のゆくえを追ってみましょう。

 島に残ったほうが幸せだ。モアナがそう自分に言い聞かせるとき、優勢をしめるのは垂直のイメージです。木をのぼる。ココナッツの実を落とす。絨毯を広げてまっすぐ下ろす。凧をあげる。村民たちが見せるのは、すべて垂直のイメージです。プアが偶然にも絨毯の下敷きになるのは、モアナの村への幽閉を象徴しているのかもしれません。

 モアナ自身も山をのぼります。その山の頂には石がいくつもつまれています。この村では村長になる者がひとつずつ石を重ねるのがならわしです。モアナはそのいちばん上に新しい石をおこうとします。小さくも決定的な垂直の運動の予感。モアナの父はかつてこう言っていました。

お前がこの上に石をおいたとき、島はいまよりも一段高くなる。お前は村の未来だ、モアナ。それは遠い海ではなく、ここにある。みんなの期待にこたえるときが来たんだよ。

 皮肉なのは、そして胸を打つのは、山にのぼったことによって、海がよく見えるということです。モアナの背後に広がる青い空と海。彼女は石をつむことをやめ、空と海のほうを振りむきます。

 つぎに来るのは、モアナの視点から描かれた映像。空と海が画面いっぱいに広がっています。正確に言えば、最初は木が映り込んでいますが、モアナが視線をさらに遠くにむけると、それは消えて画面は海と空だけで満たされます(ちなみに、父とこの山頂をおとずれた場面でのカメラワークはこれとは逆でした)。またしても青が目にしみます。

 モアナは走り出します。迷うことなく、海へと。ここで垂直と水平のイメージの優劣が逆転します。目の前には崖。するとモアナは、驚くべきことに、木と木の葉を使ってターザンロープの要領で崖を越えます。空中を水平に滑るのです。さらに驚くべきことが起きます。地面から水が激しく噴き上げるなかを、モアナが悠然と走り抜けていくのです。なんど水が垂直に噴出しようと、海へとむかうモアナの水平の滑走は止められません。

 砂浜では豚のプアが待っています。もちろんオールを口にくわえて。モアナはオールを受け取ると、ボートを水平に滑らせて海に出します。しばらくして、カメラが首を横にふると、みたび青が目にしみる映像が来ます。画面いっぱいに広がった空と海。そしてその中心にはいまモアナがいます。海に恋焦がれた彼女が。

 これはディズニー屈指の名場面です。

『ラ・ラ・ランド』トリビア集

IMDb Triviaから3つだけ訳してみました。

  • 劇中、ライアン・ゴズリングはピアニストを演じ、ジョン・レジェンドはギタリストを演じた。実際にはレジェンドはクラシックの教育を受けたピアニストであり、ゴズリングはギタリストである〔デッド・マンズ・ボーンズというロックデュオで活動中〕。2人は新しい楽器を演奏するために訓練を受けねばならなかった。
  • 映画の撮影前、デイミアン・チャゼルライアン・ゴズリングエマ・ストーンは故ジーン・ケリーの夫人の元を訪れ、ケリーの映画の記念品を見せてもらった。そのなかには革で装丁された『雨に唄えば』の脚本コピーもあった。そろそろお別れというころ、ケリー夫人の犬が逃げ出し、チャゼルとゴズリングは犬を助けるために車道に出て走った。チャゼルはゴズリングに言った。「ケリー夫人の犬を死なすわけにはいかないぞ」。2人は無事犬を救出した。

以下のページでも色々と紹介されています。

ciatr.jp

「アナザー・デイ・オブ・サン」 ロサンゼルスの渋滞だけに言えること

 ロサンゼルスの高速道路は渋滞で有名です。ふつうは見ていて嫌になる光景です。ところが、そこに輝きを見るひともいます。映画監督デイミアン・チャゼルです。

 ロサンゼルスはラ・ラ・ランド、つまり夢見るひとたちの土地です。チャゼルによれば、車社会だからこそ、ロサンゼルスは彼ら/彼女たちの「安息所(haven)」にもなります。

 とりわけ渋滞のとき、夢追いびとたちは車のなかで、思い思いにときをすごします。ミュージシャン志望であれば、音楽を聴いてもいいでしょう。俳優志望であれば、セリフの練習をしてもいいでしょう。自分の好きなやり方で夢に思いをはせればいいのです。

 渋滞に巻き込まれたひとたちについて、チャゼルはつぎのように語っています。

ひとりひとりが自分の夢をもっている。自分の歌を生きている。自分のミュージカルの世界を生きている。ひとりひとりの内面に、ミュージカル映画がある。意識していようといまいと。

なんと魅力的な渋滞のとらえ方でしょうか。

 言いかえれば、渋滞する高速道路には、車がならんでいるのではないのです。無数の夢が、あるいは無数のミュージカル映画がならんでいるのです。もちろんこれはロサンゼルスの渋滞だけに言えることです。東京や大阪の渋滞ではちょっと無理があります。

 ともあれ、こうした発想から生まれたのが『ラ・ラ・ランド』のオープニングを飾る「アナザー・デイ・オブ・サン」の場面です。

 停止した車で満たされたロサンゼルスの高速道路。クラクションの音やエンジンの排気音が聞こえます。夢追いびとたちは車のなかで、それぞれの好きな音楽に耳をかたむけています。その雑多な音響の背後からやがてひとつの曲がせり出していきます。「アナザー・デイ・オブ・サン」です。

 高速道路の上で、ミュージカルというジャンルの魅力があますことなく発揮されます。ひとり、またひとりと車を降りて、カラフルで至福に満ちたダンス・シーンを織り上げるのです。それぞれ異なる夢をもつ者たちが、夢を抱くという共通点のもとに群舞し、ひとつの大きな夢を作り上げる。そのように述べてもいいかもしれません。

 さきほどの引用でチャゼルが述べるように、車に乗ったひとりひとりの内面に、ミュージカル映画があるのだとすれば、このように言うこともできます。シネマスコープの横長の画面に、多数の車を映し出すこの場面は、無数のミュージカル映画を引用する『ラ・ラ・ランド』のオープニングに、じつにふさわしいものであると。

 ここで歌詞の一部を引きましょう。

今 私は頂を目指す
輝く光を追い求めて
打ちひしがれても
立ち上がり 前を向く
また朝が来れば 新しい日だから

 この場面の撮影はそれこそ不可能な夢に近いものでした。これだけ大掛かりなダンス・シーンを長廻しで撮影するだけでも驚異的なのですが、それをセットではなく実際のロサンゼルスの高速道路の上でおこなっているのです。

 市から高速道路の封鎖を許可されたのは3日間。初日がリハーサルに、残る2日が撮影に使われました。想定外だったのは天気です。撮影2日目は朝からこのシーズンには珍しい曇天でした。曲のタイトルに「太陽(sun)」がある以上、太陽なしで撮るわけにはいきません。

 昼ごろになってようやく天気は回復。撮影が再開されることになりましたが、困ったのは気温です。撮影は2日間とも高温注意報が出るなかおこなわれました。車の上は燃えさかるオーヴンのように熱かったそうです。完成した映像を見ると、役者たちはじつに涼しい顔で踊っていますが、実際にはオーヴンの上で踊っていたのです。

 このようにして、ひとつの大きな夢が完成しました。

 少し話はそれますが、ばらばらだった個人が突如力をあわせ、なにかを成し遂げる(そしてまた離れ離れになる)というのはじつにアメリカ的です。〈個人〉と〈集団〉のあいだの自由な往還。アメリカの国民的スポーツとされる野球の特徴のひとつも、ここにあります。ポジションは明確に分かれているものの、ひとたび打者がボールを打ち返すやいなや連携がはじまる。そして一連のプレーが終わると、またそれぞれのポジションにもどっていく。

 『ラ・ラ・ランド』のオープニングでも、ダンサーは踊り終えると、それぞれのポジションつまりそれぞれの車にもどっていきます。複雑な連携プレーを終えたあとの野手たちのように。

 そのとき描かれるのは、ふたたびいつもの渋滞の様子。ただし、このあと映画はそのなかの2台の車に焦点をあわせます。セブ(ライアン・ゴズリング)の乗る車とミア(エマ・ストーン)の乗る車です。このふたりがそれぞれ違う夢を抱きながら、夢を抱くという共通点において、恋人(あるいは戦友と称すべきかもしれません)となる。そしてーー。

    そんな物語がはじまるのは、これからです。

 

ラ・ラ・ランド(字幕版)
 
ラ・ラ・ランド(吹替版)
 

 チャゼルのインタビューや高速道路での撮影の裏話は、ブルーレイの特典ディスクに収録された「「アナザー・デイ・オブ・サン」 高速道路での撮影秘話」で確認できます。

 高速道路の場面のインスピレーション源としてしばしば言及されるのは、『ロシュフォールの恋人たち』(1967)のオープニングの運搬橋の場面です。

 チャゼル自身はブルーレイの音声解説で、画面サイズの拡大と白黒からカラーへの移行は『女はそれを我慢できない』(1956)から、街の雑音からミュージカル・ナンバーへの移行は『今晩は愛して頂戴ナ』(1932)から着想を得たと述べてます。前者の演出については『これがシネラマだ』(1952)にも同様の例があります。

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 ウェブで読める『ラ・ラ・ランド』関連の記事のリンクをいくつか貼っておきます。エンディングについてはいずれこのブログでも論じる予定です。

theriver.jptheriver.jp

filmaga.filmarks.com

『グレイテスト・ショーマン』トリビア集

IMDb Triviaからいくつか選んで訳しました。

  • レベッカ・ファーガソンの歌声はローレン・アレッドによって吹き替えられた。ファーガソンには音楽の素養があり、歌が上手いことを本人も認めている。しかし、彼女の演じたジェニー・リンドは世界最高の歌手という設定であるから、歌声の吹き替えはこの映画にとって必要なことだった。もっとも、ファーガソンは役に入りきるために、撮影中にエキストラの前で実際に「ネヴァー・イナフ」を歌うことにこだわった。
  • バーナムのアメリカン・ミュージアムは大変な人気で、中に入った客が長居しすぎる傾向があり、利益にも悪影響が出ていた。他の客にも入場してもらうために、バーナムは「イーグレスはこちら」と書かれた掲示を掲げた。「イーグレス」が「エグジット」つまり「出口」と同じ意味の言葉だと気づかずに、客は楽しい出し物が見られるぞと思ってその掲示に従って進み、ミュージアムの外に出ることになった。
  • 冒頭とエンディングのキャスト勢ぞろいのサーカス場面で使われた衣装の多くは、フェルド・エンターテイメントから借り出したものである。この会社はリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス〔バーナムが創設したサーカスの後進〕の現在の所有者である。またその衣装はこのサーカスの「地上最大のショー」〔もともとはバーナムが名付けたショー〕のプロダクションで使用されたものである。

  • ヒュー・ジャックマンによると、製作までに7年もかかったひとつの原因は、スタジオがオリジナルの〔原作がない〕ミュージカルに挑戦するのを嫌がったためである。
  • 映画の製作にゴーサインが出たころ、ヒュー・ジャックマンは鼻の手術を受けた。皮膚がんを除去するためである。80針を縫い、医者からは歌うなと命じられた。ヒューは医者のアドバイスに従った。映画の最後を飾る「フロム・ナウ・オン」の場面を演じるときまでは。ヒューはこの曲を歌うことにしたのである。歌っている途中に自分の鼻から血が出ているのに気づいた。

  • 2017年1月、リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスは解散を発表した。理由は入場者数の減少である。最後のショーは同年5月に開催された。

  • この映画はベンジ・パセックとジャスティン・ポールが書き下ろした11曲を使用している。2人は『ラ・ラ・ランド』でアカデミー賞を受賞した作詞家コンビである。映画のプリプロダクションの早い段階で、映画の舞台である19世紀を連想させる伝統的で古典的な音楽のスタイルよりも、ポップやヒップホップといった現代の音楽ジャンルを想起させる音楽のスタイルで行くことが決まった。パセックはこう語っている。「なぜそうしたかと言うと、登場人物たちの感情だけではなく、P・T・バーナムがいかに時代の先を行っていたかを表現するためだ。バーナムは自分が生きていた世界に縛られることはなかった。むしろ彼は世界を創造することを欲していたんだ」

  • レベッカ・ファーガソンはあるインタビューで自分が歌う場面ではどうしようもなく緊張したと告白している。満員の聴衆、さらには全スタッフの前で歌わなくてはいけなかったからだ。そんな彼女を救ってくれたのは、ヒュー・ジャックマンと、自分の演技へのヒューの温かい反応だったとのことである。

  • ザック・エフロンはこの映画でのゼンデイヤとのキスはこれまでで一番のキスだと言っている。

  • ある場面でバーナムの娘たちは彼にこんな提案をする。ユニコーンや人魚といった奇抜なものを手に入れてはどうか、と。良く知られることだが、現実のバーナムは「フィジーの人魚」を購入し展示した。死んだ猿を魚に縫い合わせたものである。

  • この映画はマイケル・グレイシーの監督デビュー作である。グレイシーは過去20年の間、アニメーター、デジタル・コンポジター、視覚効果スーパーヴァイザーとして活動してきた。

  • 現実のバーナムは宝くじなどのいくつかの事業に手を出した。ショービジネスに参入する前のことである。映画序盤のアパートの場面では、古看板がたくさん壁に立て掛けられており、そのなかに「バーナムの宝くじ」と大きな文字で書かれたものもある。これはグレイテスト・ショーマンになる以前、バーナムがいろいろな企てを実行していたことをあらわしている。

  • ジェニー・リンドを演じたレベッカ・ファーガソンとジェニー・リンド本人はともにスウェーデンストックホルム生まれである。

「タイトロープ」 過去といまはどこまで対照的なのか?

 「タイトロープ」の場面は「ア・ミリオン・ドリームズ」の場面と対になっています。そのことを意識したことがない方は、一度ふたつの場面を見比べた上で、以下の記事をお読みいただければと思います。

 リンドの公演旅行に随伴するために、バーナムは馬車で家を離れます。大切なひとが馬車で去ってしまう光景を、私たちは「ア・ミリオン・ドリームズ」の場面ですでに目にしています。子ども時代のチャリティが寄宿学校に入るために家を去る箇所です。そのときバーナムのもっていた布地が階段を転げ落ちたのをご記憶かと思いますが、「タイトロープ」の場面では布地のかわりにピンクの服を着た娘たちが階段を駆け下ります。

 「タイトロープ」の場面全体で効果的に使われている技法があります。クロスカッティングという技法です。これはAとBという異なる場所で起きている出来事を交互につなぐ技法です。

 具体的にどのように使われているのか見てみましょう。

 場面の序盤にバーナムの上の娘のバレエの発表会が描かれるところがあります。客席にいるチャリティと下の娘が盛大な拍手を送りますが、ふたりの隣の席は空いています。バーナムの席です。彼は娘の発表会を見逃したのです。と思いきや、この直後に満面の笑みで拍手を送るバーナムの映像が来ますから、観客は一瞬混乱します。バーナムは娘に拍手を送っているのでしょうか。

 そうではなく、これは別の空間の映像なのです。拍手するバーナムの映像のあとに、公演を終えたリンドの映像が来て、観客は拍手の対象が彼の娘ではなかったことを理解します。バーナムの家族が彼に求めていることをバーナムがほかの誰かに与えているのです。その皮肉さがクロスカッティングによって浮き彫りになります。

 クロスカッティングはこのあとさらに巧みに使用されます。そこで交互に描かれるのはアンたちのいる劇場とチャリティのいる家です。まず劇場のなかで空中ブランコを披露するアンが落下する映像があります。つぎに自宅にいるチャリティが皿を落とす映像が来ます。これに落下したアンを他の出演者が地上で受け止める映像がつづきます。

 興味深いことに、チャリティの落とした皿がどうなったのかを示す映像はありません。皿はまちがいなく割れたはずですが、その映像が欠落しているのです。なぜでしょうか。

 皿が象徴しているのは明らかにチャリティ自身です。「私が落ちたらあなたは受け止めてくれるの」。皿が彼女の手から落ちる瞬間に彼女が歌う歌詞です。疑問形であることに注意しましょう。「ア・ミリオン・ドリームズ」の場面でバーナムを信頼するがゆえにあれほど大胆に屋上から飛び出せた彼女が、ここでバーナムを疑っているのです。

 もっとも、くりかえしますが、皿が割れる映像はありません。それはもしかすると、チャリティが自分は落ちても壊れないと(つまりバーナムが助けてくれると)まだ信じようとしていることを物語っているのかもしれません。

 また、「ア・ミリオン・ドリームズ」の場面には少年時代のバーナムがロウソクの火を吹き消す箇所がありましたが、「タイトロープ」の場面でロウソクの火を吹き消すのはチャリティです。夜、娘たちが寝静まったあとのことです。

 その瞬間に映像が切り替わり、ロウソクの煙は走行する汽車の煙へとリレーされます。汽車に乗っているのは夫とリンドです。チャリティは夫のほうに息を吹いているのですが、その夫はチャリティがいるのとは逆の方向に彼女とは別の女性と走っていく、そのように見える冷酷な編集です。

 ふたたびリンドの舞台が映し出され、大喝采のなか、バーナムが彼女の手をとる様子がシルエットで示されます。このあとふたりの男女が踊る姿がやはりシルエットで描かれます。誰が踊っているのかすぐにはわかりませんが(映像の流れからするとバーナムとリンドであるようにも思えます)、場所はバーナムとチャリティの家であり、踊っている女性はチャリティです。

 しかしながら、彼女と一緒に踊っているのはバーナムではなく、幻影であることがほどなく明らかになります。風がカーテンをめくりあげると、その動きとともに男のシルエットが消えるのです。

 風が布をめくりあげるという点でも、この場面は「ア・ミリオン・ドリームズ」の場面と共通しています。

 とはいえ、風と布がはたす役割はあまりに対照的です。風と布は「ア・ミリオン・ドリームズ」の場面ではバーナムとチャリティのバックダンサーをつとめ、夢のような光景を屋上に現出させました。ところが「タイトロープ」の場面ではバーナムのシルエットを消し去り、チャリティを夢から現実へと引きもどすのです。

 現実にもどったチャリティは窓の外を眺めます。遠くにいるバーナムに思いをはせながら。私たちはこれとまったく同じ光景をやはり「ア・ミリオン・ドリームズ」の場面で目にしています。少女時代のチャリティもまた遠くにいるバーナムに思いをはせながら、窓の外を眺めました。

 そのときは夢のようなことが画面上で起きました。以前の記事で確認したように、チャリティの映像のあとにはバーナムの映像が来るのですが、このふたつの映像はワイプという技法で切り替えられます。そのため一瞬ではありますが、バーナムとチャリティが窓を隔てて向かいあっているように見えるのでした。物理的には遠いけれども心理的には近いふたりの関係がそのようにして描かれるのでした。

 「タイトロープ」の場面でも、窓の外を眺めるチャリティの映像は別の映像にワイプで切り替えられます。ところが、です。このつぎに来るのはバーナムの映像ではありません。観客の期待は、チャリティのバーナムへの思いとともに、もののみごとに裏切られます。チャリティの映像のあとに来るのは、列車の窓の外を眺めるリンドの映像なのです。

 さらに残酷な光景が私たち観客に提示されます。カメラがそのまま横に移動すると、バーナムが映し出されるのですが、彼はリンドの隣に座って眠りこけているのです。チャリティの気持ちなどお構いなしなのです。リンドもバーナムの肩に頭をのせて眠りに落ちます。

 「ア・ミリオン・ドリームズ」の場面ではバーナムが鉄道建設に携わったことが示唆されました。それはすでに論じたようにチャリティと再会し、彼女と結ばれるためだったはずですが、いま彼は鉄路の上でほかの女性と一緒に眠りについているのです。そんな彼の身にこれからどのようなことが起きるのでしょうか。

「ネヴァー・イナフ」 視線の先に誰がいるのか?

 この曲の場面の魅力はなんと言ってもスウェーデンの歌姫ことジェニー・リンドの歌唱力です。

 リンドを演じるのはレベッカ・ファーガソンですが、歌はローレン・アレッドが吹き替えています。ファーガソンもすぐれた歌唱力をもつそうですが、スウェーデンの歌姫と称すほどにはすぐれていない、ということで吹き替えが決まったそうです。

 余談ですが、ハリウッドにはかつてマーニ・ニクソンという伝説のゴーストシンガーがいました。『王様と私』、『ウエスト・サイド物語』、『マイ・フェア・レディ』等の傑作ミュージカル映画で主演女優の歌の吹き替えをした歌手ですが、その事実は映画会社によって長いあいだ伏せられていました。

 この場面のもうひとつの魅力は、観客に歌を聴かせると同時に、複数の登場人物の心の動きを描いていることにあります。曲が流れている最中にもドラマが進行しているのです。

 そのために効果的に使われているのが、視点ショットという技法です。これは簡単に言えば、登場人物の視点にカメラを置き、その人物が見ているものを撮影した映像です。

 視点ショットがあるとなにがよいかと言うと、その映像を見ている瞬間、観客は登場人物とひとつの視点を共有することができます。映画のなかの人物と一体となって、ある光景を一緒に目撃するのです。当然、登場人物への感情移入が高まります。

 「ネヴァー・イナフ」の場面では複数の人物の視点ショットが巧みに組み合わされています。そのことにお気づきでしょうか。ここではリンドが最初のサビを歌ったあとの箇所に注目してみます。つまり曲の後半ですが、じつに三人もの人物の視点ショットが出てきます。バーナムとフィリップとチャリティです。

 この箇所で私たちは、あるときはバーナムになり、あるときはフィリップになり、またあるときはチャリティになって、それぞれにとって決定的な光景を目撃するのです。

 もしお手元にブルーレイかDVDがあれば、ぜひさきに映像でそのことを確認した上で、以下の文章をお読みください。

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 最初にバーナムの視点ショットがあります。

 舞台袖にいるバーナムが客席に目をやると、上流階級の観客たちはリンドの歌にすっかり魅了されています。そのなかにはバーナムのことをさんざん酷評してきた批評家もいます。これがバーナムの視点ショットで描かれるのです。

 自分を馬鹿にしてきたやつらを見返してやった。バーナムが溜飲を下げる決定的瞬間を、私たち映画の観客はバーナムと一緒に体験します。

 これにつづいて、成功をもたらしてくれた女性の姿もバーナムの視点ショットで描かれます。バーナムが舞台のほうに目を映すと、熱唱するリンドの姿が彼の視点ショットでとらえられるのです。バーナムにさらに上の成功を求めたいという欲求が生じます。そもそも「ネヴァー・イナフ」はバーナムの心情を物語る歌という一面をもちます。

 フィリップ(ザック・エフロン)の視点ショットもあります。

 『グレイテスト・ショーマン』にはバーナムとチャリティ、フィリップとアンという二組のカップルが登場しますが、フィリップはこの場面ではじめてアンの手を握ります。

 そのときです。フィリップはふと上方から視線を感じます。裕福な身なりの老紳士が二階席からフィリップとアンを見ています。老紳士にうながされて、隣の女性もふたりに視線をむけます。

 それは明らかに非難めいた視線です。のちほどこの老夫婦はほかならぬフィリップの両親であることが明らかになります。フィリップの両親は彼が黒人の娘と手をつなぐのが許せないのです。両親の冷たい視線に動揺したフィリップはアンとつないだ手を離してしまい、それにショックを受けたアンはその場から立ち去ります。

 老夫婦が冷たい視線を送る様子はフィリップの視点ショットで描かれます。その視点ショットをつうじて観客はフィリップの動揺を、そして彼の心の弱さありありと理解します。誰から非難されようともアンを愛するという覚悟がまだできていません。

 ただしその覚悟はネヴァー・イナフではなく、ノット・イェット・イナフにすぎません。その覚悟が十分なものとなり、そしてそれが驚くべきかたちで証明されるのは、のちの「リライト・ザ・スターズ」の場面のことです。

 ここまでバーナムとフィリップの視点ショットを紹介しましたが、場面の最後にはチャリティの視点ショットもあります。

 実のところこの場面でもっとも観客の心を強く揺さぶるのはチャリティの視点ショットではないでしょうか。

 なにしろ彼女の視線の先にいるのは、熱唱をつづけるリンドと、そのリンドに完全に視線を心を奪われたバーナム、つまりは自分の夫です。かつてアパートの屋上から飛び出した自分を捕まえてくれた夫です。このチャリティの視点ショットを見逃すか見逃さないかで、のちに彼女が歌う「タイトロープ」の場面の味わいも大きく変わってきます。